神埼まちあるき(3) 伝説が息づく鳥羽院

2012/07/31

神埼まちあるき 《かんざきを歩こう 散策コース・マップ》

iv>iv>iv>

神埼まちあるき 第3弾は、脊振町鳥羽院地区を紹介します。

鳥羽院地区は、神埼市脊振町の西部にに位置する山里で、現在、鳥羽院上と鳥羽院下に分かれています。今回の鳥羽院地区のまちあるきは、「松平」「佐古」「古釜」「大畑」の4地区で構成される鳥羽院下地区です。

田中川が流れ左右に山が迫る細長い谷部に開け、古くは「絹巻の里」と呼ばれ、伝説・伝承が今に育づいく山里です。

「隠岐の島に流された後鳥羽上皇がひそかに当地に逃れ、稗粥をごちそうになった」

稗粥地蔵の伝承をはじめ、上皇が宮を構えた善信寺(現在の教信寺)、後鳥羽上皇を祀る後鳥羽神社と御陵が今も地元住民により大切に祀り伝えられています。

 

 分校跡を改修した「鳥羽院山荘

鳥羽院地区のまちあるきの出発地は、旧脊振小学校鳥羽院分校跡で、現在宿泊ができる社会教育研修施設「鳥羽院山荘」です(駐車場もございます)。

 玄関脇には地下深くから湧き出る湧水があり、「鳥羽院の湧水」として知られています。

 

鳥羽院山荘は、夏休みの子供クラブなどの宿泊研修に利用されて賑わっています。

鳥羽院山荘のご利用は、

 神埼市役所脊振支所 脊振公民館へ

 電話 0952-59-2131

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鳥羽院山荘を右に出、車道を進むと右手に崖が見えてきます。

 崖を見上げると、2体の石仏が祀られています。

 「たきかんのんさん」「ぬしかんのんさん」と地元では呼ばれている観音像です。

 

 道なりに進んで、鳥羽院下の公民館入口を左へ曲がり、県道へ。

 

稗粥の地蔵さん

県道を右手に進むと「大畑・おおばたけ)」地区が見えてきます。

集落の中程の道路右手やや上に、小さなお堂があります。これが、当地の後鳥羽上皇の伝説を伝え

る稗粥地蔵です。

 「昔、この山里に五・六人の供人を連れた都人らしい旅人の一行がたどりついた。はるばると歩いてきたらしく旅の衣も色あせて旅のやつれが見えた。一行は道端の野石に腰かけて何か話しあっていたが、一軒の小さな百姓家を見つけるとその家の表を訪れた。

中を覗くと薄暗い土間の隅で、一人の老婆が炉を焚いていた。何か煮物をしているらしく、大鍋の中からは、おいしそうなにおいが漂っていた。

供人の一人が、「われらは、都から来た旅の者、はなはだ申し兼ねるが、食事の用意はできまいか」と言葉丁寧に頼んだ。

老婆は都人らしい人々の口にあいそうな食事の用意などできそうにないので、「あいにく、都のひとにさしあげるような食べ物の用意はできません。あるものは杣人が食べる稗の粥ばかりでございます。」と申し上げた。

「何ものにても結構、あれにおられるは都のさる高貴な方」と頼まれた。

老婆は早速、稗粥を温めて差上げたところ、一行は何杯もお代わりをした。」

この一行は、隠岐島から密かにこの地を訪れた後鳥羽上皇の一行であったと伝えられています。

                  

稗粥で身を温められた上皇は、

 「かくばかり身のあたたまる草の名を いかでか人は稗というらむ」と謳われたという。

 (『脊振村史』より)

稗粥地蔵へ来た道を戻ると、

後鳥羽神社へ入る入口に後鳥羽上皇が謳った歌碑が建てられています。

後鳥羽神社への入口に建つ歌碑

 

 「絹巻の里」と絹巻観音

 鳥羽院地区は、古くは「絹巻の里」と呼ばれていました。この名は、絹巻観音の伝承として語り継がれています。

「昔 山里に父と娘の二人住まいの家があった。間もなく父は後妻を迎えたが、娘には大変邪険でいつもいじめていた。娘は亡くなった母を偲んで泣き暮らしていた。ある日、継母は娘が織っていた絹糸巻を背中に結び付けて家を追い出してしまった。

どこというあてもなく歩いていくうちに日も暮れ、困り果てていると、松林の中に灯火がかすかに灯っている家を見つけその家を訪れた。中には、一人の女が機を織っていた。女は娘の話を聞くと、これからここで暮らしなさいと家に、招き入れた。それから娘は、何時も絹を織って暮らすようになった。

数年後、娘は父のもとに帰り、これまでの出来事を父親に話した。

父と娘は、世話になったお礼をするため、その家があった場所を訪ねたがその家は無く、そこには白絹の布が積み重ねられ、娘が背負ってきた絹巻の板が置いてあった。父と娘は、観音様のお導きであったかと観音の名号を唱え手を合わせて拝んだ。父と娘は、その白絹の布を持ち帰り、その後は非常に裕福となった。

しかし、父は娘を憎んで追い出した継母を責めたので、継母は居たたまれなくなり家をでようとした。娘はこの有様を見兼ね、「私が観音様のお恵みによって命が助かり、そのうえ一家がこのように栄えていくのは、ひとえに母上のおかげであって、母上がわたくしにつれなく当たり、わたしくを追い出したまうたからであります。観音様はわたしが家に帰ったら父母に孝行をいたせ、そうしたならば、行く末お前を守ってやると仰せられました。母上を苦しめることは感温様のお言葉にもとることであります。」となだめてとりなし、それから継母も娘をかわいがり、一家は円満に暮らすようになった。

それから、この里に観音様を祀り継母が娘に結び付けた絹巻の板を後光になぞらえて、絹巻観音と崇めた。

この話が、遠近に伝えられ,この観音に参拝するものが多くなり、親不孝な者がこの観音様に願をかけると親子の仲もよくなると言い伝えられた。その後、この里を「絹巻の里」というようになった。」

 と言い伝えられています。(『肥前古跡縁起』所収 脊振村史より)

 県道右手の竹林の高台に建つ小さなお堂がこの「絹巻観音」です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

後鳥羽上皇が行宮とした教心寺

県道沿いに「善信寺」の看板が建っています。参道の石門を通り石段を登りきった高台に善信寺があります。

この善信寺は、当地に訪れた後鳥羽上皇が行宮としたと伝えられています。 

「鳥羽院村は脊振村に属す。住吉、西河太夫家房の采地なり。御鳥羽帝蒙塵して隠岐国に在らせられ、海潮の響きに悩み給い、家房を召し、遷宮を謀り給う。家房は、法印純茂と謀り、皇輿を奉じて、隠岐を出で、行宮をここに建つ。」とある。(『肥前国誌』脊振村史より)

 

教信寺は、もと天台宗で、後に禅宗と改宗され、さらに真宗となり「教信寺」と改名されています。さらに、昭和25年の北山ダム建設によって水没した北山村落合の正善寺と合併し、現在の「善信寺」と改名されています。

大正14年に火災にあうまでは、元禄2年に奉納された「鳥羽院王宮」の扁額や上皇の宸筆の書と伝えられるものも残されていたようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

後鳥羽上皇を祀る御陵と後鳥羽神社

 史実では、上皇は延応元年(1239)2月22日に崩御しています。

 当地には、後鳥羽院の山稜と伝えられる墳墓があり、住民は「塚」と呼んでいます。

善信寺の裏山にあり、現在は鳥羽院公園として整備がされています。

 

 

 

 

 

記録によると、大正元年12月20日、教信寺裏山の後鳥羽上皇の御陵墓清掃の際、石棺が発見されています。内部には二片の人骨が残され、石棺の蓋石裏には「御白骨2枚西河左衛門太夫奉拝」と書かれいました。当時の宮内省へも報告され、大正6年に現在の陵墓に埋葬したことが記録されています。

後鳥羽上皇の陵墓は、京都の大原陵とされ、隠岐に隠岐海士町陵とされる火葬塚があります。 

 

 

 

 

 

 

 

 

御陵がある鳥羽院公園

 

谷間の参道を下り後鳥羽神社へ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鳥羽院公園駐車場より右手の谷を下ると、巨岩に囲まれ谷奥に、イチョウや杉の巨木と社殿裏に流れ落ちる滝があり、壮厳な空気を漂わせる後鳥羽神社が鎮座しています。

後鳥羽神社は、後鳥羽上皇を祭神として祀られ、鳥羽院地区の鎮守として、現在も住民により大切に守り伝えられています。

後鳥羽上皇が崩御した2月22日には、鳥羽院地区住民により命日祭として祭礼が伝統的に毎年行われています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新緑の鳥羽院神社

 

後鳥羽上皇の伝承を伝える鳥羽院は、上皇に関係する地名も見られます。

稗粥地蔵がある「大畑」、後鳥羽神社のさらに奥の谷間地区は「手井田」の地名や神社前面の川辺には「禊」の地名も残されています。

 

 なぜ、この地に後鳥羽上皇の伝承が伝わっているのか、残された足跡を記す地蔵や寺社はどのような歴史を秘めているのか、

   なぞに満ちた 山里 鳥羽院です。

 

善信寺・御陵・鳥羽院公園・後鳥羽神社を望む

 

ルートの詳細

鳥羽院地区のまちあるきコースは、全行程約3kmです。

半日かけてゆっくりと歩いて山里の伝説の地を訪ねてはいかがですか?

 

基本コース

  A 鳥羽院山荘(駐車場有) ~ C 稗粥地蔵 ~ D 絹巻観音 ~ E 善信寺 ~ 

      F 御陵・鳥羽院公園(駐車場・トイレ有) ~ G 後鳥羽神社 ~ A 鳥羽院山荘

 

  お問い合わせは、 神埼市役所 政策推進室へ  電話 0952-37-0121

 

 


大きな地図で見る

 

 

 

展示室トップに戻る