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~我国近代西洋医学の道を拓いた・先駆者 伊東玄朴~

◎業績

 伊東玄朴は、寛政12年(1800)に神埼市神埼町仁比山に生まれ、幼名を「執行勘造」といい、仁比山護国寺の玄透法印に漢学を、小渕在住の古川左庵に漢方医学を学びました。17歳で父を亡くし自宅で漢方医として開業しましたが、西洋の新しい医学を志すため、21歳の時に佐賀蘭学の祖といわれる「島本良順」のもとで蘭学を学びました。その後、長崎留学を進められ「鳴滝塾」でシーボルトより本格的に蘭学・西洋医学を学び、学識を飛躍的に向上させました。27歳の時にシーボルトの江戸参府に随行する形で江戸に出て、医者として開業し、当時不治の病といわれていたジフテリヤを治し、医者としての玄朴の名は江戸中に広まりました。32歳の時には、江戸において「像先堂」という蘭学塾を開き人材育成にも努め、全国より406名の塾生が学んでいます。肥前佐賀からは上村春庵はじめ44名が学んでいます。
 伊東玄朴の医学的業績は、一つに『医療正始』の刊行です。ビスコフの著書『Grundzüge der praktischen Me-dizin』の蘭訳本を翻訳したもので、各疾病を詳細に論述した精緻な訳書で実践的な医学書となっています。
 玄朴の医学における最大の業績は、漢方医が主流の中で、蘭方医の立場を公的なものに高めたことです。伊東玄朴は、蘭方医としてはじめて将軍の侍医に召出され、その機を逃すことなく複数の蘭方医を奥医師にすることに成功し、日本の医学会の大きな転換期となります。玄朴は、当時の医官最高の奥御医師となり法印を授けられ、医学界の最高の地位についています。
 玄朴のもう一つの医学的業績は、種痘の普及です。嘉永2年(1849)には、佐賀藩主鍋島直正に建言した牛痘種法により、佐賀藩医の楢林宗健が直正公長男淳一郎に接種し始めて公式に成功します。同年11月には江戸において玄朴が貢姫君に牛痘苗を接種し成功しています。安政5年(1858)には、玄朴を中心とした江戸の蘭方医等により神田お玉ヶ池に種痘所を建設し、牛痘種法による予防医学が本格的に行われます。この佐賀の種痘が全国に広まり西洋医学の普及に大きな役割を果たしています。種痘所は、後に西洋医学所となり、現在の東京大学医学部の前身となります。
 このように、伊東玄朴は我国近代西洋医学の道を拓いた人物であり、先駆者の一人として、医学界に非常に重要な役割を担った人物です。

◎年譜
1800年 寛政 12年 1歳 12月28日、神埼郡仁比山村の執行重助の長男として生まれる。幼名は執行勘造という。
1807年 文化 4年 8歳 弟玄瑞生まれる。
1812年 文化 9年 13歳 不動院玄透法印について学問を学ぶ。
1815年 文化 12年 16歳 小渕村の漢方医古川左庵に入門し医を学ぶ。名を桃林と改める。
1818年 文政 1年 19歳 11月、父執行重助没す。自宅へ帰り医業を開く。
1822年 文政 5年 23歳 佐賀蓮池の島本良順に入門し学ぶ。後に、長崎に出てオランダ通詞猪俣伝次衛門に蘭学を学ぶ。
1823年 文政 6年 24歳 シーボルト来日。
1824年 文政 7年 25歳 シーボルト鳴滝に蘭学塾を開き教授を開始する。玄朴、通学し学ぶ。8月26日、母繁没す。
1826年 文政 9年 27歳 シーボルト江戸参府。玄朴も猪俣伝次衛門夫妻、猪俣源三郎、娘照とともに江戸に出る。4月12日猪俣伝次衛門没す。
1827年 文政 10年 28歳 猪俣源三郎よりシーボルト宛封書を預かり、長崎へ向かう。
1828年 文政 11年 29歳 江戸本所番場町に医業を開業。猪俣伝次衛門の娘照と結婚。この年の秋、シーボルト事件発覚する。
1829年 文政 12年 30歳 佐賀藩士伊東祐章の子伊東仁兵衛の義弟となり伊東玄朴と改名。下谷長者町に転居す。9月11日猪俣源三郎没。
1830年 天保 1年 31歳 長女まち誕生。3月シーボルト事件判決下る。4月24日師匠古川左庵没。
1831年 天保 2年 32歳 佐賀藩医となり、七人扶持一代士となる。
1832年 天保 4年 34歳 下谷和泉橋通御徒町に象先堂を開塾する。
1834年 天保 5年 35歳 佐賀藩医学寮設立。島本良順寮監となる。
1835年 天保 6年 36歳 『医療正始』初篇三冊を刊行する。
1836年 天保 7年 37歳 御厨玄圭を養子にする。小城藩医堤柳翠、象先堂に入門。
1838年 天保 9年 39歳 フーフェランドが紹介した牛痘法を『牛痘種法編』として翻訳し、藩主に献上す。
1839年 天保 10年 40歳 9月7日金武良哲、象先堂に入門する。
1840年 天保 11年 41歳 二女はる生まれる。7月21日象先堂でブリュメンバックの会読会が行われる。
1841年 天保 12年 42歳 大槻盤渓長女に人痘を接種し成功する。
1843年 天保 14年 44歳 蘭書を翻訳し佐賀藩主に献上する。12月14日佐賀藩主御匙医となる。
1844年 弘化 1年 45歳 鷹見泉石から診察代やワイン代を受領する。門人大石良英、直正側医となる。
1845年 弘化 2年 46歳 佐賀藩主娘貢姫の療養方となる。玄朴が跋文を書いた堀内忠寬『幼々精義』出版。
1847年 弘化 4年 48歳 2月7日、前宇和島藩主娘正姫に人痘を摂取し成功する。佐賀藩主姫君のお付き医師となる。2月12日藩主直正玄朴の建言を受け入れ楢林宗健に牛痘苗入手を命ずる。
1848年 嘉永 1年 49歳 大槻盤渓の二女と二男に人痘を摂取する。
1849年 嘉永 2年 50歳 6月23日牛痘苗伝来。6月26日楢林宗健三男建三朗等に接種善感する。8月7日楢林宗健、佐賀城下で藩医の子らに種痘する。10月2日江戸へ牛痘苗到来し、11月玄朴、貢姫に接種し成功する。幕府、奥医師に外科・眼科以外の蘭方を禁ずる。
1850年 嘉永 3年 51歳 玄朴・杉谷雍助ら訳「鉄煩全書」成る。
1851年 嘉永 4年 52歳 1月28日三女遊喜生まれる。佐賀藩、医業免札制度を開始する。
1853年 嘉永 6年 54歳 織田貫斎、長女まちと結婚
1855年 安政 2年 56歳 1月、玄朴危篤となる、3月までに全快する。貫斎、紀州藩寄合医師となる。
1857年 安政 4年 58歳 8月15日大槻俊斎宅にて種痘所設立の儀の願書を川路聖謨を申請人として提出する。
1858年 安政 5年 59歳 1月、種痘所取建許可される。5月7日神田お玉ケ池に種痘所を開設する。7月3日玄朴幕府奥医師となる。幕府、蘭方の禁を解く。7月6日将軍家定死す。11月15日お玉ケ池種痘所神田相生町からの火災により類焼する。
1859年 安政 6年 60歳 9月21日養子玄圭、初お目見え。6月お玉ケ池種痘所、下谷和泉橋に再建される。
1860年 万延 1年 61歳 5月2日養子玄圭没す。10月14日大槻盤渓が種痘所頭取となり、同日幕府直営となる。
1861年 文久 1年 62歳 5月8日新薬製造の儀を建言す。6月、クロロフォルムを麻酔剤に使用し右足切断手術に成功する。10月、種痘所を西洋医学所と改称す。10月27日養子玄伯、林研海とともに長崎でポンペに就学。12月、玄朴、法印に叙せられ長春院と称する。
1862年 文久 2年 63歳 西洋医学所頭取大槻俊斎死す。8月21日緒方洪庵西洋医学所頭取となる。玄圭と研海、ポンペの帰国に同行しオランダに留学す。
1863年 文久 3年 64歳 1月25日奥医師を免ぜられ、小普請人を命ぜられる。
1865年 慶応 1年 66歳 戊辰戦争で横浜に転住する。
1868年 明治 1年 69歳 2月17日隠居す。養子玄伯に家督相続。
1871年 明治 4年 72歳 1月2日玄朴死去。谷中天龍院に葬られる。

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